2013年2月25日月曜日

連載「ゲーマーのための読書案内」第23回:『ジュリアス・シーザー』_2

。  この,「理想と現実の折り合いをつけようと最大の努力をしていたら,なんとかなるような雰囲気が漂ってきたのに,やっぱりなんともなりませんでした」という展開は,よく出来た歴史ストラテジーを思い起こさせる。歴史の大きな流れを前に,局面局面で後知恵に基づき「最善の選択肢」を使って流れを押し留めようとしてみたところで,やっぱり船は流される。そんな独特の無常観(あるいは宿命論)が,ここには確かに息づいている。  ちなみに新潮文庫版の巻末には,シェイクスピアが底本にしたといわれるプルタルコスの「対比列伝」が引用されていて,これがまた非常に面白い。当然ながら「対比列伝」でもやっぱりシーザーは暗殺されるし,ブルータスは弁舌で敗北するし,最後は剣に倒れる。でありながら,「対比列伝」の段階ですでに「もしかしたら」的演出は随所に挿入されていて,読んでいるとついつい「こっちのシーザーはもしかしたら生き延びるんじゃ?」「こっちのブルータスは勝利するんじゃ?」とかいう,あり得ない妄想が忍び込んでくるそして「こっちのシーザー」も「こっちのブルータス」も死ぬことを見,改めてそれが歴史なのだと思い直す。だって歴史なんだから仕方ない。  それでもやっぱりもう一度,別の可能性を求めて『ジュリアス?シーザー』を読み返し,やっぱりシーザーは死んでブルータスも死ぬ。で何度プレイしてもルクセンブルクは誰かに必ず踏み潰されるし,の佐竹家を担当し,死力を尽くして宿敵?北条家を打倒してみたところで,Cheap Diablo 3 Gold,ご近所の上杉家は北条家?武田家の2勢力がかりでようやく抑え込まれていたのだから,そこで北条家が弱れば,余力の出来た上杉家がたちまちゲームの大局を制してしまう。結局佐竹家は「天下第六位の大身」(史実どおり)くらいにまとまるのが関の山なのだ。  同じようにシーザーとブルータスは必ず死ぬにもかかわらず,やっぱり読み返してみたくなる。それが正しい意味でのリプレイアビリティでないことは分かっているのだが,読み手/プレイヤーが予測済みの挫折を楽しめる点は妙に似通っている。  それはそうとして「対比列伝」の時代,つまり紀元1世紀頃から,歴史をエンタテインメントとして楽しむ手法に,Paradoxメソッド=別の選択肢の提示が採用されてきたのかと思うと,2000年経っても歴史エンタテインメントの形は,ugg,さして変化していないのだという意味で,驚きを感ぜざるを得ない。  なお,同様な観点で歴史を描いたシェイクスピア作品のなかでは,個人的に「リチャード三世」も推したい
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